フラメンコ・ミニエッセイ その4

フラメンコ・ミニエッセイ その4


“アルグノス・モメントス”

 人々は彼らを「アルヘシーラスの少年たち」と呼んだ。兄が歌い、弟がギターを弾いて、少しづつ名前を知られ始めていた。
  ある日彼らは、初めてのテレビ出演のために父親に伴われて、マドリードへとやってきた。しかし当時の法律では未成年に現金で報酬を支払うことは禁じられていたので、テレビ局は、ギターを素晴らしく弾きこなした少年に玩具の汽車を贈った。
 そのあと彼は、ギタリストのホセ・マリア・パルド、つまり僕の父の家に立ち寄った。そして僕の母は、家族のために用意していたつつましい一皿の夕食を、僕たちと同じように貧しい3人の客のためにとりわけた。
 帰っていくときギターを弾く少年は僕に、テレビ局でもらった汽車を、彼がギターを弾いて稼いだ初めての報酬を僕にプレゼントしてくれた。少年の名はフランシスコと言った。現在の、パコ・デ・ルシアである。
 僕の父がパコたち兄弟の長兄であるラモンのギターの師でもあり仕事の同僚でもあった時代を過ぎたあとも、僕はパコとその兄弟たちとのつきあいを続けてきた。仕事の外では、彼はどちらかといえばシンプルな人間だといっていいだろう。サッカーの大ファンで、寿司が大好きで、皆と笑って過ごす時間を過ごすのも好きだ。故郷アルヘシーラスの男たちがそうであるように、彼もまた頑丈な一人の男だ。
 しかしひとたびギターを持つと、彼はこの時代の傑出した天才である。パコのような存在は今までもごくわずかしか現れなかったし、また現れるまでには長い年月が必要だろう。もし少しでもフラメンコを理解する人なら誰も、パコが特別なアーティストだということは否定できない。彼のテクニックも、彼の創造性も、彼の前衛性も。パコをすごく好きだという人もあれば、それほどでない人もいるだろう。しかし彼の価値を否定することは不可能なのだ。ちょうど、ピカソの絵を嫌いだという人はいても、ピカソを否定する人はいないように。
 パコがくれた汽車は、もうはるか昔になくしてしまった。でも、彼のギターを聞くたびに、パコは今も僕に沢山の贈り物をしてくれている―――感動や、情熱や、そしてフラメンコへの夢という贈り物を。

カルロス・パルド
(対訳:渡辺 万里)
2011.09.04

フラメンコ・ミニエッセイ その3

フラメンコ・ミニエッセイ その3


“アルグノス・モメントス”

 フラメンコについて語るには、カンテ(歌)について語らなければならない。あの パコ・デ・ルシアが言っているように、我々ギタリストは、歌いたいのに歌うことがで きない、いわば欲求不満の歌い手たちなのである。
 ギタリストが心で歌いながらギターを弾くとき、踊り手が俗に「歌を踊る」と言わ れるように歌に合わせて踊るとき。そこにフラメンコというひとつのドラマが始まる。
 私にとって、もっとも好きなのは歌のために弾くことであり、そしてもっとも難し いのも歌のために弾くことである。
 それは一種の会話のようなものだから、これほどに繊細で複雑なのである。その対 話のためにギタリストは、適切な出だしを弾き、正しいコードを弾き、歌い手の声の 速度を推し量らなくてはならない。
 しかしまた同時に、これほど素晴らしい、うっとりさせてくれることがあるだろう か。二人の人がひとつの音楽を実現していくこと。インスピレーションを共有するこ と。そして共に歌うことほどに………。
 それは瞬間の音楽である。そして永遠でもある。あなたが自分のなかに「歌」を感 じたなら、その音楽は常にあなたの元に止まるだろうから。

カルロス・パルド
(対訳:渡辺 万里)
2011.09.03

フラメンコ・ミニエッセイ その2

“Algunos momentos”

  Flamenco es , para mí una forma de pensar, una forma de sentir, y una forma de ser.
  Es un arte tan dificil y tan profundo, que no se puede llegar a comprender solo estudiando el toque de guitarra ni el cante.
  Hay que emborracharse. Hay que madrugar. Hay que enamorarse. Hay que divertirse. Hay que sufrir. Hay que llorar.
  Es un arte que tiene su raís en la tierra muy dañada; La Andalucia, y que se identifica en los sufrimientos y los sentimientos del pueblo andaluz.
  Flamenco , es una forma de vivir.

Carlos Pardo


“アルグノス・モメントス”

 私にとってフラメンコとは、その人の考え方そのもの、感じ方そのもの、そしてその人の在り方そのものだ。
  フラメンコは余りにも難しく奥深いものだから、ただギターや唄を練習しても理解できるというものではない。
 酒を飲み明かすことも必要だ。恋をすることも。人生を楽しむことも。苦しむことも、泣くことも、すべてが必要だ。
 フラメンコはアンダルシアという深く傷ついた大地にその根を張っていて、アンダルシアの民衆の苦しみと情感のなかに在る。
 フラメンコとは、人の生き方そのものなのだ。

カルロス・パルド
(対訳:渡辺 万里)
2011.09.02

フラメンコ・ミニエッセイ その1

“Algunos momentos”

  Farruco era muy especial, aparte de que era muy buen artista.
  En aquella epoca; la epoca que cuando Farruco era joven, ningun bailaor sabía qué significa colocar brazo, y allí empezó la epoca de la valenciana; Pilar Lopez.
  Por el ballet de Pilar, han pasado casi todos bailaores importantes de esta epoca; como Antonio Gades o El Guíto y otros más, y allí aprendían la forma de colocación de baile.
  Pero Farruco no aguantó allí. Por que aun siendo joven, Farruco ya era Farruco, y sabía que él iba a bailar lo “suyo”. Y así bailó toda la vida.
  Descanse en Paz.

Carlos Pardo


“アルグノス・モメントス”

 ファルーコはただ素晴しいアーティストというだけでなく、特別な存在だった。
  彼が若かったあの時代、バイラオール(男性の踊り手)たちが誰もまだ、腕をどう構えるかなどという課題に気付いていなかった頃、バレンシア出身のピラール・ロペスというバイラオーラ(女性の踊り手)が現われた。
 現在の代表的なバイラオールのほとんど---アントニオ.ガデスやエル・グイートを含む---が、ある時期ピラールのバレエ団に入り、そこで踊りの姿勢やフォームを身につけた。
 しかしファルーコだけは納得しなかった。まだ若かったにもかかわらず、ファルーコはもうファルーコであり、彼の踊りは彼だけの独自のものになると判っていたのだ。そして彼は一生、自分の踊りを踊った。心から冥福を祈る。

カルロス・パルド
(対訳:渡辺 万里)
2011.09.01
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